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国宝太刀 名物「日光一文字」

鎌倉時代中~末期にかけて、備前国福岡庄を中心に繁栄した「福岡一文字派」は数多くの名工を輩出し、幾多の名刀を製作している。その作風は本作に見られるように、丁子の花が爛漫と咲きほこる様を漆黒の地鉄に焼き、一世を風靡した。

一文字派の名称は作者銘に「一」を刻んだ作があり、それに起因している。刀には通常手で刀身を持つナカゴと呼ばれる部位に作者銘を刻むが、皇室や社寺へ納めるときに作者銘を刻まない場合があり、「日光一文字」はその可能性が考えられる。

本刀の原作は、福岡一文字派の典型かつ傑作で、その号の由来はもと日光権現社(現日光二荒山神社)に奉納されていたことから「日光一文字と呼ばれるようになった。

戦国時代初期(十六世紀初期頃)、日光権現社に奉納されていたものを北条早雲が拝受したが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、和睦を仲介した黒田孝(よし)高(たか)(官(かん)兵衛(べえ)法号如(じょ)水(すい))の労をねぎらい、北条氏直が孝高に贈ったもので、以後黒田家に伝わり現在福岡市博物館に所蔵されている。

日光二荒山神社

日光二荒山神社